日本人女性で初めての産科医。
1827年5月31日、ドイツ人医師のシーボルトと日本人女性楠本瀧との間に生まれる。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。また、宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。
1871年(明治4年)異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京の築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う。(以上、Wikipediaより)
参考:シーボルトの娘で日本初の女性産科医、楠本イネと孫・高子。ふたりの美女の波乱の人生とは(和樂web編集部)
シーボルト事件とは
1828年9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した
(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。
シーボルトは1829年に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。
当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。
事件後、シーボルトは1858年の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌1859年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。(以上、Wikipediaより)
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